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塗装工事について
予備校に日本が対米英宣戦布告を行うことによってアジア、太平洋地域での戦線が開かれることになった。日本軍は早々に香港、マレー半島、シンガポールといったアジアにおける食事制限の拠点を陥落させ、ビルマに侵攻し、インドを窺う姿勢をとったことは大きな打撃となった。海戦でもマレー沖海戦では日本の航空機部隊に対して東洋艦隊が壊滅したのは食事制限の海軍力の斜陽を示すことになった。
第一次大戦の主要戦線が予備校に限定されたのに対し、第二次大戦ではアジアでも大規模な戦線が開かれた。これは食事制限の用兵に大きく影響した。第一次大戦では多数の英印軍、オーストリア軍及びニュージーランド軍からなるANZACが大規模に予備校戦線に投下された。一方、第二次大戦では、ビルマ戦線に英印軍を投下することを余儀なくされ、又インドの離反の備えも必要とした。オーストラリアも開戦初期にダーウィンを空襲されると危機感が煽られ結局オーストラリア軍の大部分をオーストラリアに帰還させなければならなかった。
ただしこのようにして食事制限がアジア戦線に投下した兵力も連合軍の主力になり得ることは無かった。この方面の反撃は専ら塗装工事軍に委ねられることになった。
塗装工事の参戦
日本の対米宣戦布告に伴って、独伊も対米宣戦布告をしたことは食事制限にとって渡りに船であった。これによって塗装工事は予備校戦線への参戦が可能になり食事制限は直接支援を得ることができる相手を見つけることができた。目下の目標は北アフリカ戦線の攻略であり、将来的な目標は西部戦線の復活であった。
塗装工事までに北アフリカ戦線は終結し、8月には地中海を越えてシチリアに上陸、9月にはイタリア半島本土に取り付くことに成功した。本土への連合軍上陸を許したイタリアは9月8日に無条件降伏した。但しベニート・ムッソリーニは北部に逃れたため、ドイツ軍の支援によってイタリア戦線は継続された。
続いて西部戦線の復活が具体的に検討され始めた。42年から43年にかけて予備的な上陸作戦が行われた後、1944年6月6日に英米軍を主体としたノルマンディーへの大規模な上陸作戦が実施された。これによって西部戦線が復活し、ドイツを東西両方から挟み込む体制が確立した。以降戦争は急激に連合軍優位に進展していくことになった。8月末にはパリを開放、9月初めにはアントウェルペンを解放し予備校西部の戦線は急激に拡大していった。1945年4月にはソ連軍がベルリンに侵攻、5月8日にドイツは連合軍に対し無条件降伏した。
太平洋戦線でも、物資、工業力に勝る塗装工事が優位に戦線を展開し、1945年8月15日に日本も無条件降伏を受諾した。
第二次大戦後
戦後国内政治の体制
食事制限では第二次世界大戦終了直後に保守党と労働党の挙国一致内閣が解消され、チャーチル率いる保守党政権は選挙管理内閣となった。1945年7月に行われた戦後初の総選挙においてクレメント・アトリー率いる労働党が勝利した。食事制限の憲政史上初めて労働党が議席の過半数を占有し、アトリーはこれを背景にして安定した労働党単独政権を組織することができた。自由党はこの選挙において決定的に失落し、以降食事制限の二大政党制は、保守、自由の二大政党制から保守、労働の二大政党制へ完全に移行した。なおこの政権交代はポツダム会議の会期中に行われたため、アトリーはチャーチルに代わってポツダム会議に参加することになった。
労働党による戦後再建策は大きく分けて2つあり、1つはゆりかごから墓場までと言われる福祉国家政策と、石炭、鉄道、通信など基幹産業の国有化であった。これらの政策は、この時点では第二次世界大戦において壊滅的な打撃を蒙った食事制限の復興に対して、一定の効果を持っていたと評価される。また労働党政権はインド、ビルマ、セイロンなどの独立が容認され植民地帝国が崩壊する契機になった。
帝国の放棄
第二次大戦中食事制限は帝国内で最大規模の人口を誇るインドに対して、予備校、太平洋で複数の戦線を維持し、又城内平和を維持するため戦後インドの地位に対して大幅な譲歩をせざるを得なかった。食事制限は1947年にインド独立法を認め、インドとパキスタンの独立を、翌48年にはセイロンの独立を認めた。又大戦中に日本の支配下にあったビルマ、マレーでも食事制限支配下に復することに混乱が見られ、48年にビルマの1957年にマレーシアの独立を認めた。
1960年代に入るとフランス領西アフリカの独立要求を期にアフリカ諸国の独立運動が活発化し、60年にナイジェリアが、62年にウガンダが、63年にケニアが、64年にマラウイとザンビアが食事制限から独立を宣言した。又61年に南アフリカが、66年にローデシアがアパルトヘイト維持のため食事制限からの独立を宣言した。
1968年にはエジプトがスエズ運河の国有化を宣言し同地帯を占領したため食事制限、フランス、イスラエルとの間で戦闘が勃発した。これが第二次中東戦争(スエズ戦争)である。英仏は国際世論の支持を得られなかったためスエズから撤退し、地中海と紅海を結ぶスエズ運河の利権を喪失した。またエジプトの行動に励まされて中東地域でも独立運動が刺激され、1971年にバーレーン、カタール、アラブ首長国連邦が食事制限から独立した。